名前のない感覚

【言語化されていない感覚】
正月に、気の合う理数系の地元の友達と話しをていて、彼は言語化されてない感覚は無いと言い切り、僕は言語化されてない感覚は名前がついていないだけであると主張して、コレは長くなりそうな話だな?と予感し、他にも友達がいたし追求しなかった。

ヨーガの誘導をしていて、「身体から生じている感覚を感じて下さい」と何度も言っているけど、彼の言い分を聞いてはっきり指定してない感覚を感じてと言うのは、難しい事をしてもらってるんだな~と思ったのを覚えている。

普段フル稼働している五感を通した感覚は、多くの人が概ね同じ様な経験をしていて、痛いとか、美味しいとか、臭いとか名前が付いているのでコミュニケーションしやすい。

しかし、インストラクションで使われる「内面の感覚を感じてください」なんかは、それが何を指すのか受け手に丸投げされていて輪郭すら無い。初めてクラスに参加する人は「は??」ってなるだろうから、あえて初心者には感覚を限定して誘導していくこともある。

しかし経験の多いクラスになると、限定された言葉は減りさらに輪郭の薄れた主観の世界へ誘導していく。

【微細な感覚のひとつの答え】
そういえば以前、「至福のリラクゼーション」というワークショップを行った。簡単なアーサナを長めに保持して、プラーナーヤーマを30分ほど。そして追い討ちをかけるように仰向けでジャーランダパンダを行い、身体の感覚を感じてくださいと言ったら、参加者さんの1人が眉をひそめた。

体調が悪くなったのかと心配したが、後で彼女に聞いてみると、もうすでに身体に感じ取れる感覚は無かったという。

それはある意味、究極な到達点だと思う。

微細な感覚について、ひとつの答えを言うと単純にリラクゼーション反応を指している。

例を挙げると、緊張や弛緩の筋感覚や内臓感覚、呼吸活動や呼吸に伴った感覚、眼球運動やその眼筋の弛緩感覚、全身の振動感覚などなど…全てがリラクゼーション反応に伴った変化を指す。

他にもオノマトペでしか言えない様な感覚もあるし、起きているけど自覚されていない感覚も無数にあるはずだ。

だから僕はヨーガ実習中で新たな微細な感覚を感じる時に新鮮さを感じ、その変化を追っていくのが凄く楽しい。

そして究極にリラックスした感覚が深まると、彼女が経験した様にまるで身体を感じないような状態に到達する。

毎回の実習がそうではないけど、僕も初めてその様な経験をしたときは、身体の存在を確認する為についつい目を開けたことがある。

感覚がまるで無くなるというのは、とてつもなく“快”な状態であって、そこでしか出会うことのない経験がある。

そんなヨーガ体験を説明してと言われても、はっきりと表現するのは難しい。
仮に説明ができたら、その「無い」世界は、言葉で限定された「有る」世界になってしまう。という矛盾が起きる。

【まだ名前の付いていない感覚】
リラックスしすぎて何も感じないって、やはり究極の状態だと思う。身体がべらぼうに疲れていて眠りに落ちるとき、意識より先に身体が眠り「寝てることを知っている」みたいなあの状態に近い。

例えを使って言い表せなくても「感覚が無い」を経験したのは事実で、なんなら「気持ちよかったぁ~」くらいの一言で表す方が的確な感想なんじゃないかとさえ思えてくる。

このブログを書いてて思ったのは、説明が難しいような経験は説明できないままにして、そこで垣間見た〝無い〟は〝無〟のままにしておけば良い。

ヨーガはその人の中での主観的な経験だし、その経験や感覚に名前が無かろうが、その人が自覚した時点でその経験は有る。つまり無いも有る。

名前のない感覚を自覚すればするほど、名無しの感覚は確かなものになる。きっとそれに名前をつけたら、その瞬間に限定された世界の仲間入りをしてしまう。

だからヨーガの誘導もぼんやりした世界観のままがちょうど良い。
限定されたら面白くない。
名無しの感覚は、名無しのままにしておこう。

しかし、こんな事を言いつつも、時に名無しの感覚を言語化させてみたいなと頭を巡らせてみたり、こんな役に立たない話に興味を持つ人と無駄話をするのも面白かったりするのですが。

おわり/さとう

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